chapter1 ~ Distorted 歪 ~
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その日の授業が終わり下校を知らせるチャイムが鳴る。
キリトはケイを避けるように足早に昇降口までおりて靴を履き替えた時、地面を叩きつけるような激しい雨が降り始めた。傘を持っていなかったキリトは、小さくため息をつく。今日はつくづくツイていない。
「キリトくん、傘持っていないなら一緒に帰ろう」
遠慮がちに話掛けられた声の相手が誰かはすぐに分かった。鞄が雨に濡れないように体の前に抱え込むようにして、激しい雨が降る中へ走り出す。
しばらくずぶ濡れになりながら走っていた足は次第にスピードが落ちていき、いつの間にか歩きへと変わっていた。
どこからか歌が聞こえる…キリトは足を止めた。
透き通るような歌声はポケットから聞こえてきていた。
雨の音だけを ずっと
しとしと 聞いてるの
さよならも いえないまま
ひとりきり いまも しと しと
去りゆくひとたちを
想えば せつなく響くけど
透明な世界 見せてくれる
いまここに たしか にあるよ
覚めない 夢の続き
空の涙かな いまも
しとしと 聞こえてる
なにもかも 洗い流す
美しい 雫 しと しと
ひとりきりだって
確かに ここで息をしてる
苦しくない 悲しみもない
憂鬱もないよ
必要ないものは
もうさよなら
浄化してくれるの
雨の音だけが
ずっと しとしと 響いてる
さよならは 言わなくていい
ひとりでいい
いまも しと しと
去りゆくひとたちは
忘れよう もう別の道だよ
透き通る 生まれ変わる
穢れのない 世界へ急ごう
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「ケイが好きだっていたアヤネさんの歌だ…なんで突然再生されたんだろ…」
キリトが携帯電話の画面を見た時、トラックがキリトのそばを勢いよく走り去り、泥水をはね飛ばしてキリトのシャツに染みを作った。
「くそっ、今日はやな事ばかりだ…」
しかし、あの時携帯の画面を見るために立ち止まらなかったら、視界の悪い中猛烈な勢いで走って来たトラックに惹かれていたかもしれない… そんな思いを巡らせながら自宅のマンションが見える所まで来た時、道路の真ん中に蹲っている小さな塊が目に入った。
その小さな塊は雨に濡れ、濃い茶色の毛に包まれた子猫だった。
雨と泥で存在が消えかかっているその子猫は、道路の中央で蹲り微かに聞こえるぐらいの声で鳴いていた。
キリトが子猫の存在に気付いた時、背後の路地を曲がり雨と泥を弾き飛ばしながら走ってくる車が視界に入る、タイヤが作る轍の伸びる先には子猫が蹲って震えていた。キリトは思わず走り出し子猫を片手で掴み、受身を取るような形で道路の脇に体をぶつけた。キリトは胸に抱いた子猫の温もりを感じ、しばらくそのままで居た。
縁石でぶつけた背中の痛みが少し治まり、胸に抱えた子猫の様子をそっと伺うと子猫はキリトの顔を見上げ『ミィ』と小さく鳴いた。
その時、道路の反対側でこちらを見ていた少女の姿が目に入った。
その少女は10歳くらいの女の子で、水玉模様のついた薄いピンク色の雨合羽のフードから心配そうな表情を覗かせていたが、子猫の姿を見つけるとこちらに駆け寄ってきた。
「ミィちゃん!」
「君の猫?」
ピンク色の雨合羽の女の子は半ば泣きそうな顔で答えた。
「うん、おうちから逃げ出しちゃったの… お兄ちゃん大丈夫?」
「あ、うん、大丈夫だよ。君の子猫も無事だよ」
子猫が心配でたまらないのだろう、少しそわそわと子猫を見ている少女にキリトは優しく子猫に差し出した。
「ミィちゃん、良かった!どっこもケガしてないね!」
子猫は少女に返事をするように目を細めてミィと鳴いた。
「お兄ちゃん、ありがとう!」
少女はペコリとキリトにお辞儀をすると、子猫を大事そうに雨合羽の中で抱いて、キリトのマンションの向かい側に立ち並ぶ戸建ての住宅街へ向かって歩いて行った。
キリトはしばらく少女の姿を眺めていたが、突然寒気が背中の痛みと入れ替わり身震いをした。急いで自宅のマンションのエントランスに入り、ポケットから取り出したハンカチで露出している肌の部分に付いた水滴を拭いエレベーターに乗り込んだ。
玄関の扉を開けるとそのまま浴室に向かい、濡れて汚れた上着を脱衣かごにそっと入れ、浴室暖房のスイッチを入れた。
そばに掛けてあったバスタオルで濡れた頭を拭きながらリビングへ向かうと、テレビへ向かい音声操作でニュース番組を選択した。テレビ画面には今日の出来事を特集したニュース番組が放送されていて、女性のストーカー被害のニュースが流れていた。
被害女性の名は『城咲彩音』とテロップに書かれているのを見て、キリトの鼓動が音を立てる。
「城咲彩音って… アヤネさん!?」
ニュースでは、『城咲彩音』は最近話題のシンガーとしてSNSでも注目を集めていたが、一人の男性ファンが自宅まで何度も押しかけ問題になっていると言う事だった。
ケイがファンだということもあってか、少し気になって『城咲彩音』についてインターネットを使い色々と検索してみた。
彩音の母親は、イスラエル人だと言うことがウィキソースと言うネット百科事典に書かれてあった。キリトの母親も同じイスラエル人であっため、母親の事を思い出していた。
キリトはアイドルや芸能人に対してあまり興味は無かったのだが、彩音に心が魅かれたのは母親と同じ国の人間で、何となく雰囲気も似ていたからかもしれない。